「完全な状態」を誰も知らないので形状や大きさは明らかではありませんが、
欠けているものは想像以上に大きくて深刻なのです。
あらかじめ大きさのわかっているもの同士なら、簡単に比べることができます。
たとえば見た目が同じ「卵」があるとしましょう。
二つの卵は同じにしか見えませんが、一つは生卵、もう一つはゆで卵です。
見ただけでは区別できなくても手に取って割ってみれば一目瞭然ですし、
テーブルの上で回せるかどうかを調べれば割らずに見極めることもできます。
もう一つ別の卵を持ってくると、やはり見た目は同じ卵でした。
しかしそれを手に持った瞬間「軽い」と感じました。
よく見ると底が割れていて、中身が空っぽになっていました。
……
「生卵」と「ゆで卵」は商品としてはまったく別のものですが、どちらも立派な売り物です。
しかし割れて「中身のない卵」は、「卵」として売ることは不可能でしょう。
でもぱっと見、まともな卵なのです。
まじまじと見たり、手に持ったりすればわかってしまいますが、見ただけではまともな卵なのです。
これと同じような欠陥が私の頭にあり、
日常生活に支障をきたすほどの問題となっています。
欠けている部分を直接、見ることはできないかもしれません。
だから「欠けている部分は相当に大きい」といっても、
目に見えて「大きい」とわかるわけではありません。
「欠けているのだから“小さい”」というわけでもありません。
物理的に見えない部分なのです。
周りの人と比べたときに、明らかに「欠けている部分」、
暗算ができないこと、
人の顔と名前を関連付けて覚えられないこと、
あいさつを要領よく行えないことなどがあり、
生まれたときからずっと……いまだに少しも改善されていないのです。
外見や数値、グラフや表などで見たり比べたりすることができない部分に欠損があるのです。
これが相当に大きい。
もし見ることができるのなら、底が割れた卵のようなものだということです。
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