セルフ・ハンディキャッピングといって、
社会的に上手くいかないのを自分の名前のせいにできる……というのが一つ。
成功が保証されていない、あるいは限りなく成功率が低い場合、
なんらかの言い訳や逃げ道をあらかじめ用意しておくのは非常に重要だと考えられます。
「読めない名前」は不利だとか品位を欠いているなどと悪くみなされがちですが、
だからこそ一般的な認識とは異なる手段や方法によって活路を開くことができるのです。
「名前で差別をするな」と訴えれば立場が変わるかもしれません。
ここで問題なのは、
・読めない名前をつけない
・読めない名前にも寛容になる
という二つの道があるということです。
前者は保守的であり退屈に感じられるかもしれません。
後者はそれとは対照的に変化や多様性に富む半面、収拾がつかなくなる可能性があります。
おそらく…かなり多くの人は前者の認識であると思います。
常識的な考えを持ち、「漢字」の伝統に反しない読みをあて、無難な名前を考えているでしょう。
ところが…読めない名前にも寛容になるというのは大きな障害です。
なぜなら「あなたの名前はなんと読むのですか?」とそれとなく尋ねるのが難しく、
また知ったあとの反応にも困ることが多いからです。
だから…もしかすると…
こぞって「読めない名前」をつける人には、その読みを知った人の反応をうかがい、
寛容さと良心を試そうとする不思議な力が働いているのかもしれません。
どんな名前でどんな読み方をするかよりも、
人の名前に対してどのように反応するかをテストしているかのようです。
「親から変な名前をつけられた、もうだめだ」
と悲観せず、その名前を生かす方向に考えることが大切です。
常識とか普通とか平凡とか一般的という概念はもう時代遅れです。
せっかく貴重な機会が与えられているのに多様性を失ったのが今の世の中です。
ごく一部のメディアや権力が勝手に作り上げた流行と価値観に縛られて、
「承認欲求」が暴走し、視野が狭くなり、競争にうんざりする人が増えています。
これから一生関わることもない人たちと足並みをそろえる必要がありますか?
ほとんどの人とは会うことも話をすることもないのです。
そんな人たちの動向をいちいち気にしても仕方がありませんよ。
2021/03/18
読めない名前が有利になることもある
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