2019年9月2日月曜日

新学期の腹筋…「誰かが助けてくれる」無責任な対策 夏休み最終日と2学期の始まり

「誰かに相談しよう」
「誰かが助けてくれる」
という他人事のように無責任な対策を講じるのにどれだけ予算を割いているのか……
予算よりもまず人員が必要だということがわからないのかね?
画一的で一方的な「希望」を押しつけるのではなく、本人にわずかに残された光を見逃すな。
大人はすぐ自分の経験や、「昔はこうだった~」という見当違いの話題を切り出そうとする。
そんなものに効果がないからデータに反映されているのだろう。
だから今になって対策に追われているのだ。
再び無意味な対策を……。
改まって相談窓口や専門の部署を設けたところで誰がそれを利用する?
そんなものは「対策したつもり」になっているだけで「対策」になっているとはいえない。
もっと「日常」に組み込まなければ人を救うことはできない。

一つの例を挙げると…

夏休み中ずっとネトゲで「相談」し親身になった相手に対して
「じゃあ明日から学校がんばってね」
というのは死刑宣告のようなものである。

本当に必要なのは「明日からも一緒に遊ぶ相手になること」だったのに、
最後の最後で手のひらを返せばどういう結果になるのかを
なぜまったく予想できないのだろうか?
想像力に障害のあるアスペルガーの私でも予想できるのに、
専門家たちにそれができないのはなぜなんだ?

結果的に救えなかった方法をまだ「対策」と言い張るのか??
まさか「自然淘汰」の一言で片付けてしまうのか?
立場が逆転したら自然淘汰などと言っていられなくなるはずだ。

「誰かが助けてくれる」

これほど無責任な対策があるだろうか。

「誰か」とは架空の存在でしかなく、「助け」とは
念仏を唱えていれば極楽へ行ける
というのと本質的に同じことである。

21世紀になってもそういう原始的な対策しかできないのか……
どうして考える頭脳もあって権力もあって資金もあって実行力もある人に限って役立たずなのか……
やはり少子化は意図されたもののように感じられる。

ネトゲの中でいつも通り接して、そこで建設的な「対策」を講じるのが最善である。
いきなり「学校に丸投げ」するのは飛躍しすぎというか、なんというか、
無理が通れば道理が引っ込むことにほかならない。

思春期の間は特に「常識」を身につけるのが困難な人がいる。
受け入れやすい形に変容させ、代替手段を覚えるのにも重要な時期である。
時間は限られている。

たとえ爆弾を解体できないとしても、爆発を遅らせたり安全な場所へ移動させたりすることはできる。
しかし不用意にコードを切れば即刻爆発する場合もあるだろう。
それを専門家がやってしまったという皮肉なことになっているのだ。


あせる気持ちはわかるが、学校や社会に上手く適応できないことがわかった時点で、
「常識」とは異なる方法を用いるように時間を使うべきである。
そうすれば「誰かが助けてくれる」などという無責任な対応ではなく、
「その人がまさに助けている」ことになるだろう。

そもそも学校が頼りにならないから不登校になるのだから、
責めるべきは本来学校側であるはずである。
ところが画一的な教育論にとらわれた現場はそれを認めることができず、
不登校になった子に問題があると決めてかかってしまう。
ますます追い込まれることになる。

「地震対策」の要点からもわかるように、柔軟性のない構造物はむしろ簡単に壊れるものである。
一見、堅牢で不動の立場にある学校も、柔軟性を欠いてはそれを維持することは難しい。
外からも中からも崩壊しうる危険な状況にある。

「倒れるのが嫌だから立ちたくない」

こんなふうに考えて無気力な日々を送っている人も多いだろう。

「生まれてこなければ死なずに済む」

どんどん合理的に考えるようになっていく。

このような人を諭すのに常識や論理、学校教育が役に立つだろうか?
ゲームのほうが現実的である。

常識的で論理的だと思っている人のほうが非現実的な様態になっていて、
息抜きを知らず、勤勉で、クソ真面目で、メンタルも弱いことが多いのだ。
そんな人が学校へ行ったら……もう休めない。もはや過労死だ。

無理に「2学期を迎える」よりは、ずっと「1学期の終わり」にとどまっていたほうがいい。


終わらない夏休みとはそういう意味なのだ……

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