2014/05/20

初めて買ったケータイで初めてのメル友ができた→

メールの返信を今か今かと待ち続けることに。

多くの人が経験しているであろう「メル友」とのやりとり。

メル友という言葉があまり聞かれなくなって久しいが、
LINEやツイッターという別の手段がその代わりとなっている。

ツイッターでつぶやきをする

フォロワーの反応を今か今かと待ち続ける

LINEでもほぼ同じである。
メールのときもほとんど同じである。
もっと古くは「留守番電話」の返事を待つときも同じである。
さらには「文通」も同様である。
懸賞に応募して結果が出るのを待つのもやはり同じである。


いずれの「手段」にも共通しているのは、
自分の送り出した言葉(発信)に対しての反応を待つことになる
ということだ。

待っている間はワクワクテカテカするかもしれないが、
じれったいので、できれば待ち時間をなくすか短くしたい、
すぐにでも反応があってほしい、と感じる。

とにかく待ち時間というのは多かれ少なかれ負担であり、
ストレスを感じさせるのである。

どのような手段であれ、この世の最高速である「光」をもってしても
お互いを往復するのには時間を要するため、必ず待つことが生じる。

もう一度、共通している部分を強調しておくが、
「反応を待つ」
つまり誰かの返事やリアクションを期待しているという点だ。

期待するものがなければ、特に待ちわびることもないという意味でもある。


「チラシの裏」という表現がある。
それはチラシの表(記事)と異なり、
誰かに知らせるわけでもなく、聞いてもらいたいわけでもない、
特に意味や目的のない文章や創作物のことを示している。

正確には、それを書いた人が、「意味や目的のないもの」と主張すれば
なんでも「チラシの裏」ということになる。

しかしそれを見た人は何かしら反応するかもしれず、
本来の意図とは異なった扱われ方をすることがあるのも特徴である。

具体的な対象の存在するメールやツイッターは「チラシの裏」とはいえない。
そのため意味や目的を込めなくても反応される可能性が高い。
無意味な「つぶやき」でも人目に留まり、お気に入りやリツイートされる場合がある。

ときにはいたずらで犯行声明や自殺をほのめかすような発言もみられるが、
そのほとんどは文字通り「いたずら」であって本気ではないのであるが、
法律や大衆の反応(通報等)の解釈によっていたずらでは済まされなくなり、
おおごとになってしまうことが多い。


さて、私がブログを公開することについて「何も期待していない」とすれば、
この記事も立派な「チラシの裏」ということになるが、
そもそも期待をするから反応を待つのがもどかしくなるのである。

変な自信や期待を込めると疲れることが多くなり、継続が難しくなる。

正直なところ、長文をびっしりと書き連ねること自体はさほど疲れないのだが、
それを人に読んでもらおうとしたり、反応を待っていたりすると疲れる。
そしてそれが積み重なることでイライラや抑うつを引き起こすのだ。

では今回の記事はどうなのか。

今回の記事はというか、私の書いているほとんどの文章がそうなのであるが、
書くことは実際とても面白い。
自分で好きなように考え、好きなように書く文章は面白い。

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