2014/09/01

命がけでやれという無謀な発想

何かを命がけでやらせるというのは非常に危険な考えだ。
もし命がけで取り組むことが達成の条件であるとすれば、
自殺した人はみな何かを達成していることになってしまう。

自殺を減らしたいのか増やしたいのか。

追い込まれた人にとって「命がけ」というのは文字通り「命がけ」となりうる。

人生が楽しいとか、何かを達成したというのは、
本人がそう認識するかどうかにかかっている。

第三者からの客観的な評価で決まるものではない。

はたから見れば明らかに成功している人に話を聞いてみても、
愛想笑いばかりで決して「自分は満足している」とは言わない。

むしろさらなる高みを目指してただ精進するだけである。
それは不満の裏返しにすぎないのだ。

逆に誰の目から見ても失敗している人が
「自分は満足している」と言うかもしれない。

その人は自分を誰かと比較したり、競ったりする意志を持っていない。
自分が満足しているのを、他人が心配する必要もない。




命がけで何かをなしえると、それが習慣になるだけである。

ただ努力と精進を続けるだけの人生になってしまい、
満足する機会がどこにもない。

それを「充実」というなら笑うしかないだろう。
自ら不幸を背負うことが幸せだとでもいうのか?

不幸とは、自分で満足する機会を失ってしまうことにほかならない。

稼ぎが少ないとか、容姿が悪いとか、運が悪いというのが
不幸と結びつくわけではなく、
それに対して自分がどう感じるかによって決まる。

インターネットの世界は広く、自分を他人と比較することが多くなりがちである。
比較対象が多いから分析的になりやすく、
そのため不幸を感じる要素を見出しやすい。

昨日まで意識することのなかった要素が、
今日のネットサーフィンで気づいてしまい、
不幸になる……。

有益な情報も多いが、不幸になる情報も多いのだ。


成功したければ成功したと思えばよく、
幸せになりたければ幸せだと思えばよい。

一見おかしな話のようであるが、どんなに遠回りしたって
結局これが一番肝心なことだからである。

視野を広げて不幸になるくらいなら、
狭い視野で幸福になったほうがよほどいい。

命をかける必要などまったくない。

むしろ自然体で、無理のない、リラックスした状態から
本当の幸福というのは見つかるものであり、
命がけの探索で見つかるものは偽物の幸福でしかない。

偽物の幸福は見つけてもすぐ別の幸福に目が移り、
それを手に入れるまでずっと「不幸」となるのである。

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