メロンパンにはメロンの成分は一切入っていません。
原材料名を見ても「メロン」はありません。
メロンではないのにパッケージにメロンの写真を起用しているメロンパン。
事実とは異なる商品なのに文句を言う人はいません。
メロンパンは「見た目がメロンっぽいから」そう呼ばれているのです。
メロンパンにメロンなど入っていないのだから名前を変えるべきだとする考えは、「できないことはやらない(やめる)」というのと似ています。
見た目がメロンに似ているのだからメロンパンと呼んでもよいとする考えは、「できる範囲だけやる(認める)」ということと似ています。
前者の考えは厳格ですが極端すぎるでしょう。
文化的に中庸を重んじる傾向があっても、なぜかやたらと白黒はっきりさせたがる思想が高まってきて、
矛盾した態度や振る舞いに疲れてしまう人が増えてきています。
国や地域差によらず、文化はもともと後者のように柔軟で、妥協を歓迎するところから始まっているはずです。
最初から厳格なルールや罰則が存在していたら、発展するどころかあっという間に滅びてしまうでしょう。
……
文明が発展の最終段階を迎えたり、コンテンツが成熟したりすると、それまでとは逆の様相を見せるようになるのでしょうか。
たしかに物事は建設だけではなく破壊もしなければ維持していくことができません。
ちょうど骨芽細胞と破骨細胞の連携によって骨格が健全に保たれるのと同じです。
生産するなら消費もする必要があるわけです。
一つ生産に失敗したからといってすべて処分するでしょうか?
また、生産したものをすべて消費しなければならないのでしょうか?
どちらも極端な考え方です。
これが暗黙の了解になっているせいでみんな疲れてしまうんですよ。
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