2014年3月31日月曜日

朔のカキカキ話でわかったこと

まず、たった2週間くらい目を離しただけでずいぶん変化・進歩するものだということ。
寝る子は育つ。
つまり見ていないときに伸びる場合が多いのだ。

何かやるたびにいちいち報告や確認を行うのは時間の無駄である。
結果だけでいいのだ。

初めは誰もが「過程」のほうが重要だと考えるが、
過程はあくまで本人の問題であり、それを報告することに力を入れるのは賢明ではない。

たとえば…
何を描こうかなwww
 ↓
何かリクエストありますかwww
 ↓
チン☆⌒ 凵\(\・∀・) まだぁ?
 ↓
チン☆⌒ 凵\(\・∀・) まだぁ?
 ↓
('A`)
これは意味がないwwwwww
朔も≧∀≦ブハハハハハハと言うであろう。

何を描こうかなwww
 ↓
よし、これを描こう(報告)
 ↓
こんな感じでいいかな(下書きを報告)
 ↓
下書きできた(報告)
 ↓
ペン入れするよ(報告)
 ↓
ウー c(`Д´c)なんか上手くいかない(報告)
 ↓
ここは省略しよう(提案)
 ↓
色はいいや(挫折)

このようにフローチャートにしてみると意味のなさがハッキリとわかるのだが、
実際にやってみるとその無駄な行動は意外と気づきにくい。
逐一報告することで誤った達成感や充実感を得たつもりになり、
そこで成長が止まってしまうことが多いのだ。

朔の大きな進歩は、「じゃあ何をもって達成とみなせばいいのか?」というところにまで
たどり着いたことである。

下書きやラフスケッチでは到底「達成」とはいえない。

ただペン入れに関してもどの段階まで線を整えればよいのかは
判断の難しいところである。

上手い人の描いた「線画」はあまり参考にならないかもしれない。
というより、まだ朔は「線」と「線画」のハードルを越えられていないからだ。
「1本の線」の太さ、強弱、入り抜きについて熟慮している段階であり、
何本もの長さや太さ、カーブ、タッチの異なる線の集合体である「線画」には
まだ到達していない。

ここで「1本の線」にとらわれてしまうと延々と足踏みをすることになる。

よく「線の引き方」を教えたり、それを学びたがる人がいるが、
線というのは線画を作成する「過程」で身についていくものであって、
「1本の線」を単体で学んでどうこうできる問題ではないのだ。

「練習したつもりが時間の無駄」というのはまさにそのことなのである。

「1本の線」だけを見れば曲がったりヨレヨレになったりしていても、
その線を組み合わせて一つの「線画」となったものは、
単体で見た線とはまるで違う、生きた作品になっている。

完全にブレのない線というのはデジタル補正の産物であって、
絵を描くスキルそのものを反映しているわけではない。
ブレのない線を1本だけ描いたからといって何か意味があるか??
まさか1本の線だけで完成品と呼ぶわけにはいかないだろう。
前衛アートならともかく。

もし朔があくまで「1本の線」についてマスターしようと考えているのなら、
それは単に線のコピーにすぎず、どのように組み合わせたところで
自分自身の絵にはなりえない。
コラージュやコピペに魅力を感じるのならそれでもいいのだが。

ブレのない完璧な線を引きたがるのは初心者にありがちなミスで、
絵を表現するための「手段」にすぎない線が「目的」になってしまっている。
手段と目的が逆転してしまっては意味がない。

下書きの中から的確な位置を選んで引いたものが「きれいな線」なのであって、
手ブレやヨレの一切ない線を引けということではないのだ。
筆圧による線の強弱さえもタブーになる可能性がある。
本末転倒であろう。

素早いタッチでシュッシュッシュッと線を引くことに憧れる人が多いが、
それは十分な画力のある人が絵を表現するための手段にすぎず、
シュッシュッシュッというのを真似ること自体を目標にするのは間違いである。
ペンを紙に当てたまま離さずにゆっくり線を引くことよりも難度が高い。
離したときと再び当てるときのずれを補正しなければならないためだ。

とにかく「線の引き方」そのものを考えるよりは、
まずは自分なりのやり方で「線画」を描いてみることが肝要である。

2014年3月29日土曜日

格差は減らせても完全になくすことはできない

格差というのは小さくしたらしたでそのわずかな差を争うようになる。
タイムアタックでいうところの1/100秒や1/1000秒といった次元です。

同じ身長の人を集めたところで、
あいつ俺より0.1cm高いな…
あと5ミリ高ければ…
男性なら髪の量なども気になるでしょう。

女性なら体重やスリーサイズが気になり、わずかな差を激しく争うことになるわけです。

格差なんてものは減らしたら減らしただけ競争を激化させるようなものだから、
「あって当然」と思っておくことが一番気楽なのです。

2014年3月26日水曜日

ゲームの強さには限りがあるが面白さは無限にある

まさか面白さを数値化したり数式で求めたりしていませんよね?

それでどんなに大きな数字を得たとしても「有限」です。
ゲームのキャラクターをいくら強くしたところで必ず限界があります。
制限を設けていないゲームなんてないですからね。

そして強さ=面白さというわけでもないところが肝心です。
実に多くの人が強さを求めて面白さを失っています。

面白さを求めれば強さなんて関係ないことにすぐ気づくのですが、
多数派の意見や動向というのは強制力が非常に強く、
置いていかれまいとして必死になる人が多いのです。

さらに悪い傾向として、
いったん強さを誇示した人はそれを維持することに尽くさなければならず、
あとに引けない、ひたすら強さを追求する人生になりやすいということです。

ぷっきんプリン

雨腹筋

2014年3月25日火曜日

あせったらこうしよう

めんどくさいことを効率化してまでやろうとすると必ず弊害が起きる。

「下手の考え休むに似たり」ということわざがあるように、
何もしないでいることが正解かもしれないね。

2014年3月15日土曜日

Twitterを上手に使うとはどういうこと?

つぶやきを多用し、なおかつ多数の人に見てもらうというのはどういうことか。
読者の目をTwitterに釘付けにするということです。

ふむ。Twitterに釘付けにするのはいいんじゃないか。
読者の注意をずっと引きつけるにはいいテクニックだ。

しかし…
少し考えてみればわかると思うのですが、
四六時中Twitterを見続けるというのは大変です。

自分も大変なのに、読者にもそれを要求するとしたらどうですか??

初めのうちはみんな興味を抱いているからタイムラインをよく読むことができますが、
フォローが増えるにつれて読むのに疲れを覚え、
Twitterを見る頻度が減り、やがてほとんど利用しなくなる…。


つぶやきが手軽に行えるというのは、
いつ発言するか決まっておらず、またその回数や頻度も不規則であり、
結果的には「手軽」どころか非常に煩わしいものとなる可能性が高いのですよ。


そう、つまり、活動の拠点をTwitterにしてしまうと収拾がつかなくなる。


多少「面倒だな」「手間だな」という感覚のあるブログを主体としたほうが、
時系列的にも内容的にも上手にまとめることができます。



Twitterというのは「鳥のさえずり」という意味であり、
森林でたくさんの野鳥が絶えずさえずり続けているような光景で、
一字一句はっきりした意味や目的を持って発せられているというよりは
単なる環境雑音、いわゆる「ホワイトノイズ」的な様式になっています。

ノイズに溶け込んで心地よい時間を過ごすか、
それともノイズに一生懸命聞き耳を立てて疲れるかは、
利用者しだいということです。