2014年11月14日金曜日

ゲームをするのに動機付けや目的を持つことは不要である

何をするにも目的・理由・動機・根拠などを求めている人は多い。
ではそれらの条件が満たされなくなれば「やめる」のか?
といわれると、どうやらそうでもないらしい。

つまり自分の都合で決めているということであり、
自分のルールを自分で柔軟に変えているということでもある。

これは考えうる限りもっとも理想的なことである。


ゲームというのは遊び方を他人に示してもらうのではなく、
自分の好きなように進めていくことが非常に大切だ。

ある程度の操作法や用語の解説などは他人に求める必要があるかもしれないが、
そこから先は必ずしも他人を頼りにしなくてもよい。


「共有」について重要なことがある。

ゲームの遊び方や魅力を他人と共有しようとする人はとても多い。
しかし共有することを強制すべきではない。

オンラインゲームの場合、とにかくその「共有」というのが自他ともに負担となりやすく、
「ネトゲ離れ」の大きな要因となっている現実がある。

ネトゲそのものは面白いが、その「面白さ」を誰かと共有しなければならないとか、
ほかの誰かと一緒に楽しまなければならないとか、楽しませなければならないといった、
強迫めいた認識になってしまいやすいのだ。

自分が楽しむためにゲームをするのではなく、
他人を楽しませるためにゲームをするようになるのであれば、
それはまさに「共有」がもたらした害悪といっていいだろう。

だからといって共有を否定しているのではない。

これが私の主張の肝心なところである。

共有することが絶対的に素晴らしいのではなく、
共有することができる相手のいることが素晴らしい。

何でもかんでも共有しようとするのは感心しないし、ときには迷惑にもなってしまうが、
その共有しようとする欲求を快く受け止めてくれる相手がいるというのは
実に素晴らしいことである。

「(^p^)」といえば「(゚p゚)」と返ってくるように、
正式な言語である必要もない。

共有できる者同士でのみ通じる言葉や表現、動作というのは健全な「文化」である。
それは他人に押し付けるものではないし、嫌々ながらに受け入れるものでもない。


これらの点に留意すれば、そもそもゲームをするのに動機や目的意識を持つことが
いかに的外れであり、本当の魅力を損なうことにつながってしまっていたことがよくわかる。

自分が楽しいと思うことをする。

これに勝るものなどないのである。

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