2011年3月25日金曜日

秋葉原無差別殺傷事件とあすさんの違い

コピペを見ながら違いを考えてみます。





・宿題の作文は一字でも間違えたり汚い文字があると、部分的修正でなくて原稿用紙丸々書き直し

私にそのような修正を求められた場合、相手が何様であろうと「合理的ではない」と逆に突っ返す形になる。





・子供が欲しいものは申請させて全部チェック~の買ったら感想文。モチロン誤字脱字は(ry

申請も感想文も一切ない。すべて任意である。




・テレビは基本見せない。ドラえもんとまんが日本昔話だけ許可

私自身、それほどテレビを見たいわけではなかった。




・賢い子にするため、漢字の熟語の問題だして十秒カウントダウン。十秒以内に答えられないとビンタ。
 痛くて泣くと次の設問で泣きながら正解だしても泣き声うるせーのでビンタ。


そのような問題で試さなくても、普通に読み書きを行えるだけの能力が私にはすでにあった。




・ゲームは土曜日に1時間。基本中の基本。名人も言ってたおね。

ほぼ毎日あらゆるゲームで遊んでいた。規制されることもなかった。




・漫画&雑誌は論外。

私が読みたいと思うような漫画はほとんどなかった。




・友達を家に呼ばせない

むしろ親は、いつも一人でいる私を遊ばせるための友達を積極的に呼び込もうとしていたほどである。


・彼女厳禁

異性に対しては非常にクソ真面目で、誰に対しても公平な振る舞いをしたために、仮に彼女がいたところで、彼女とそうでない女の違いがない状況であった。









彼の場合、どうやら育った環境が好ましくない影響を与えたようである。



厳格な家庭に生まれ、厳しいしつけに打ちひしがれていた。

これは私とは正反対である。





長くなるので一言でまとめよう。





決定的な違いとは、彼は親が基準であるのに対して、私は私自身が基準であり、私がほとんどすべての物事について自由に考え、自由に決め、自由にさせる権利と力を有していたことである。





山でヘビを捕まえてきて「飼いたい」といえば飼うことが許されるし、学校を「休みたい」といえば休むことができた。



このことは「自己中」であるアスペルガー症候群としての私に非常によく対応しているといえる。

「何も思い通りにならない」彼と、

「何でも思い通りになる」私の違いである。


もちろん私のこの半生記は、きわめて危険な可能性──おそらく彼以上の脅威──を秘めているであろうということは、多くの人にとって理解に難しくない。


しかし「バカと天才は紙一重」といわれるように、危険というのは、安全と常に隣り合わせなのである。



彼が暴走発動したのはやはり、白馬のお姫様が彼の前に現れなかったからである。

という格言が示すように、暴走するのは(身勝手だとしても)それだけの理由があるが、防ぐ方法は本人が一番よく知っていて、そう望んでいるものなのである。






以前、私は自分のことを「原発」のようなものだと説明したが、今の私は、安定に動作している本来の、そして理想の原発そのものなのだ。







安定していられるのは、私一人の力ではなく、私の友達や、友達のような人や、それ以上の人たちのおかげである。

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